この祭りが終わる前に 七

 

 そのときぼくはああもうおしまいだなと思ったのだ。 ぼくの足元には破裂した蛙の死体と爆竹の残りかすがぼろぼろと転がっていた。 誰も知らない、都子すら知らない、ぼくのたったひとつの秘密を、色素の薄い瞳はまじまじと見つめていた、恐怖をあらわにして見つめていた。 涙を流すかと思ったらそうではなかったが、それでもぼくを見つめる少年の顔色は真っ当と言って相違なかった。 だからぼくは、おしまいを感じて密やかに微笑むしかなかったのだ。  
 ぼくはぼくの道義も不義も愛していた、そのどちらもが奪われるのならぼくはもう死んだって同じだった。 つまりぼくはそのとき、もう死ぬしかないと思った、だけれどぼくはぼくを肯定して死にたかった。 ぼくがつらつらとそんな事を考えている間、少年は目を見開いて、息を止めたままじっとこっちを見ていた。 ぼくはちょっと考えたあと、彼に向かってそっと微笑んだ。  
 「蛙だって血は赤いんだぜ。 知ってた? 」
△  
 「純くん。 」
肩に甘い息がかかる。 ののかのものだ。 ぼくの目玉を右下に向ければ、そこでののかがじっとこちらを見上げているとわかっていた。 わかっていたのでそちらは見ずに、息とも声とも取れぬ音で返事をする。 ののかはその音をなんと受け取ったのか、声もなく笑うと、またとりとめもなく話し出した。  
 「純くん、もう、終わっちゃうんだね。 」  
 「そうだねえ、もう終わりだね。 」
寄り添う柔らかな肉体が、ほのかな熱を帯びてくすぐったい。 ののかは、よくこんなふうに、わかりきったことをぼくに言うのだった。 まるでとても大事なことであるかのように、当たり前のことをわざわざ口に出して同意を促すのだ。 ぼくは、この甘えた声がわりと好きだった。  
 それきりふたりは黙ったままに、青色の校舎の中を、ゆっくり歩く。 祭りの名残を惜しんだみんなが、肝試しをしながら帰ろうと言うんで、わざわざみんなして屋上へ上ってから、順番にふたり組を作って一階へと降りているのだ。 もうみんなは玄関まで辿り着いて、最後の組であるぼくとののかを静かに待っているのだろう。 ぎしぎし、とゆるやかな音を立てながら、ぼくらもすこしずつ、みんなの待っている出口へと近づいていく。 蝉は鳴きやまず、ぬるい風がそっとふたりの汗を拭った。 体に纏わりつく空気の全てが、夏の夜を物語っていた。  
 「あ。 」  
 ののかがふと立ち止まり、ぼくもそれに合わせて足を止める。 ののかはじっと窓の外を眺めて、そっと人差指を上げた。  
 「あのベンチの前で、ののか、純くんに好きって言ったんだよ。 」  
 ほらまた、そんなこと。 ぼくはちょっと笑ってしまった。 ののかはこうして恋に酔っている。 可愛らしいと、すこしだけ思った。  
 「そうだったね。 よく覚えているよ。 」  
 「純くんね、断らないだろうなって、わたし本当は知ってたんだ。 」
くるりと踵を回して、見上げるようにしてののかが微笑んだ。 ぼくは口の中でそうだろうねと呟く。 ぼくとののかの間には、なんの運命もなかったが、目を合わせたその時に、ぼくらが同じ墓に入ることは決まってしまった。 そこにあるのは激しい恋情ではなく、静かな合意でしかなかった。   
 ののかは照れたように笑うと、もう一度傍に寄って来て、自然とぼくの手を握った。 そうして頭をぼくにもたれかけ、静かに静かに言うのだった。  
 「純くん、のの、純くんのこと、大好きだよ。 」  
 「ありがとう、ぼくも、ののかのことが好きだよ。 」
儀式のように言葉を売り買う。 それでもののかは満足したようで、また甘えた声を出した。
 「ねえ純くん、ののはね、純くんがのののこと好きって言ってくれるから、明日もがんばろうって思えるんだ。 」
 「そう? そんならぼくも嬉しい。 」
 ぼくはそう言って愛しそうに笑ったけれど、本当はそれが違うと知っていた。 
 なぜって、ののか、君はロマンチストのふりして嘘をついているだろう。 君はぼくが好きだなんて言わなくても、気だるい夜の空気とか、川の泡飛沫が潰れる音とか、そういうものに励まされて生きていける人間なんだ。 ぼくはののかのそういうところが好きなんだから。
 ののかは馬鹿ではないけれど、物事を深く重く痛々しく考えるほどの根気と狂気を持っていなかった。 ののかは純真無垢ではなく、それゆえに、純真無垢であろうとして、全ての暗さを一思いに捨てるような女だった。
 「今日のお祭り、楽しかったかい。 」
 思い出して、ぼくは尋ねた。 今日はあんまりののかと一緒にいなかったから、こんなにかわい子ぶるのかもしれない。
 「うん、すごく。 純くんは? 」
 「ぼくも、とても。 」
 良かったよ、言おうとして、言葉が継げなかった。 笑みが唇に張り付いた、ぼくの瞼の裏には草平がいた。 じっとこっちを見ていた。 
 ぼくの言葉に戸惑った様子の少年は、見えない餌を貪る魚みたいに、口をもごもご動かした。 それから、汗をにじませた丸顔をすこし崩して、
 「そうなんだ。 」
とだけ言った。  
 おや、とぼくは思った。  
 ぼくは早熟な子どもであった。 社会的な倫理観はすでに理解していたし、それに伴った模範的な行動を人前で披露するのが好きだった。 しかし同時にぼくは、虫や蛙などちいさな生き物を殺すという極めて平凡な――悪意のない残虐性と言う意味において――趣味を持つ子どもでもあった。  逃げ惑うちいさな命を、手袋をはめて捕まえて、鋏で切ったり、ピンセットで千切ったり、炎で炙ったりして、生きたままにきちんと段階を踏んで殺すのが好きだったのだ。 そしてその頃はとくに、誰もいない水場でレインコートを着込み、籠の中の蛙を一匹ずつ連れ出して、そのちいさな喉にそっと爆竹を押し込んでは、その皮膚が臓器が弾け飛ぶのを恍惚と眺めていた。 ぼくはこれが倫理に社会に反していることを知っていた、だからたった一人でいつもちいさなものを殺す快楽に浸っていたのだ。  
 だからぼくは、一思いに怖いだとかやめろだとかなんとか言わない少年に、すこしだけ驚いた。 だからまた、口を開く。  
 「ぼくはこれが……つまり生きたままに弾け飛ぶのが、とても綺麗だと思うんだけど。 君は? 」  
 「あ、う、ああ、うん、そうか。 そうなんだね。 」  
 「ぼくは蛙を捕まえてその口から腹に爆竹を突っ込んで投げるんだ。 どう? 」  
 「そ、そ、そうなんだ……。 うん、うん。 」  
 彼は肯定も否定もしなかった。 だけれどぼくは彼が、ぼくの行為を否定的な目で見ていること、しかし否定する勇気がないこと、その上ぼくをかつてから好意的に見ていたこと、それらすべてがわかって、同時にそれが奇跡に思えた。 喉元が、ぐっと熱くなる。   
 「君の名前は? ぼくは純。 」  
 「お、お、お、おれはね、そ、草平。 草平だ。 」  
 「草平ね。 なあ、今日、夏祭りに行かないか。 番神さまのところであるんだ。 ぼくら親友になろうよ。 ぼく、親友ができたらぜひ会わせたいと思ってた女の子がいるんだ。 可愛いぜ、最高だよ。 」
ぼくはただただ嬉しくて、そのときはおそらく人生の中で一番饒舌な時間だった。 ぼくの不義を見たってぼくを否定しない人間を、こんなにも偶然に苦労なく手に入れたのだ。 突然の話に、幼い日の草平はただただ瞼を上げ下げしていたが、ちょっと照れたように下を向いて、小さく頷いたのだった。  
 それからぼくらはずうっと一緒にいたから、すぐに互いを信頼するようになった。 ぼくは草平の弱さにひたすら安心した。 都子にも誰にも明かせないような秘密を、すべて草平に預けた。 草平は、共犯者にでもなったような張り詰めた顔で、いつもぼくのやること為すことに肯いた。 ぼくはその顔がとても嬉しかった。 ぼくの運命の人は、都子たったひとりだけれど、ぼくにとっては同等に、都子と草平が必要だったのだと思う。  
 
 それが君を悲しませてしまったのか。
ののかとまた歩き出しながら、ぼくはひっそり考える。 偶然では足りなかったか。 必要という言葉では満たされなかったか。 ぼくと草平の友情には、なにが欠けていたのだろう?
 ぼくは今でもちいさなものを殺すのが好きだ。 どんなに間違いだと知っていても、あの綺麗でちいさな心臓を、震える足を目玉を、血を体液を、ぼくはいつまでもこの手に感じていたかった。 ぼくの人生で、たったひとつの我侭だ。 だから、例え草平が、日に日に苦しそうな目をするようになっても、ぼくはまったく気付かないふりをした。 彼の弱さと好意が詰まった肯きにつけ込んで、ほかの誰にも見つからないよう、ひとつひとつ丁寧に、命を摘みあげていったのだ。 それを知っているのは今でも草平、君だけなのに。   
 眼を閉じる。  
 草平は確かに、得がたい友ではなかった。 ぼくの人生には、そのうち、第二第三の君とでも言うべき人が現れるんだと思う。 だけど、それでも、ぼくは確かに君が好きだったのに。 そんなに君を悲しませていたなぞ知らなかった。 ごめんよ、草平。 君は親友だったのに、ぼくはぼくの快楽のため、君を犠牲にしたようだ。 でも、許しておくれ、これはぼくの、ぼくである証なのだ、君も気付いているように。
 「さてののか、もうそろそろ行こう。 みんなが待っているよ。 」  
 思考を止める。 いつの間にか足取りが緩み、流石に急いでみんなと合流しなくてはいけない時間になっていた。  
 「みんなって、誰? 」  
 「え? 」
ただ肯定の言葉が返ってくると思ったのに、ののかが何か言うので、ぼくは気の抜けた声を出してしまった。 思わずののかの大きな黒目を覗きこむ。 意外に思ったのだ。
 どうしたんだいののか、嫉妬の真似事なんて、らしくないじゃあないか。  
 ののかの言いたいことはなんとなくわかったので、ぼくはなんともないような明るい声で答える。  
 「みんなの中には、勿論都子も入っているよ。 みんな、なのだから当然だ。 」  
 ののかは下を向いて黙った。 そして普段より、幾分か小さな声で呟く。  
 「純くん、ミヤちゃんのことを話すときがいちばん、よく笑うよね。 」
ぼくはそれこそちょっと笑いたかったが、無理に抑えて、そうかな、と言った。  
 そんなことは初めて言われたのだ。 本当にそうなんだろうか。 ぼくは都子のことを話すとき、そんなに笑っているのかな。 自分では、草平といるときが、一番笑っていたような気がするけれど。  
 とりとめもなく考える、能面顔のぼくの目を、ののかは責めるように見つめ返した。 今日はいったいどうしたんだろう。 そんなふうに言われたら、ぼくはもっと都子のことを考えちまう。
 都子はぼくのなかで本当の特別だ。 好きだと聞かれれば、好きだとも、愛しているとも、すぐにそう答えるとも。 だけれどぼくが都子に抱くものは、軽薄な恋情とも傲慢な肉欲ともほど遠いところにある。 それを君がわかってくれると、ぼくは到底思えない。
 都子は不器用で馬鹿で子供っぽい。 けれども、ぼくの知りうる誰よりも気高い瞳をしていた。 どんな人でも愚直に愛し相対することを知っている、素直で優しい瞳だった。 だからぼくはぼくが産まれたときから失っていたすべてを持つ都子に魅せられた。 ぼくはずっと都子の傍にいた、だけれど、そんなに近くに居続けてなお、ぼくは都子を薄いベールの向こうに見ていた。 ぼくは都子をほとんど天使かなにかのように愛していたのだ。  
 ぼくは繋いだ手を離す。 ののかがぼくを見上げた、ぼくはののかを見下ろした。 透き通る肌と、色づいた唇と頬、潤む瞳、ののかの何もかもは、恋する少女として完成されていた。 ののかは、すべての少女の憧れを集めて均したような女の子だった。  
 「ののか、キスしよう。 」  
 とまどう細い肩を引き寄せて、ぼくはののかにキスをした。 唇を離して、五センチの距離。 眼鏡越しに、火照った顔をした、ぼくの恋人が見える。  
 「こんなこと、都子にはできないよ。 」
微笑んで手を離す。 じゃあ行こうかと、ぼくはののかに背を向ける。 少し遅れてののかはぼくに着いてきた。 玄関戸の向こうに夜空が見えた。 
 ののかは納得してくれただろうか。 都子への愛とののかへの愛が異質であると、理解してくれただろうか。 ぼくは都子をずっとずっと遠くに見ていた。 都子にキスなどできるわけがなかった。 だからののかの嫉妬などまるで杞憂なのである。 
 どちらにせよののかは、このことをもう二度と尋ねてこないだろう。 ぼくらはお互いのことをなんにも理解できないけれど、お互いの望みを察するぐらいには器用だった。
 ぼくらはそういう意味で永遠に一つにはなれないのだ。 分かり合うということは諦めるということでもある。 ぼくらはそういうふうに愛し合って生きていく。 人間はきっとみんな、そういう満たされない思いを、きっと墓場まで持っていく。 それが愛だと、ぼくは思うのだ。  
 外に出ると、門のところでみんなが待っていた。 苦笑いで、そこかしこのみんなからの冷やかしを受け流す。 都子が寄ってきて、学級委員でしょって小突くから、はいはいと肯いた。 そうしてぼくは最後に左手を上げた。 みんなはふっと静かになる。  
 「じゃあみんな、今日のことは、決して忘れぬようにしよう。 明日からだってぼくらは続いていくんだぜ。 そうそう、宿題、終わってるか? 」
茶化せば、嫌なことを思い出させんなと、あちこちで笑い声が起こる。 それもすぐに止むから、ぼくはまた話し出す。  
 「ぼくら最後に、こんな馬鹿げたことをした。 でもきっと、この学校の餞になっただろうさ。 ぼくらとこの学校は、このまんまお別れになるけれど、ぼくらはなんも変わらないまんま、ずっと今日を愛しく思おう。 」  
 みんなは、手にした提灯の灯りを、小さな息でかき消した。 それから、妙に沈んで顔を見合わせ、それでも微笑んで手をあげる。
 さよなら、さよなら。 さよなら、さよなら……。  
 疎らに人が散っていく。 ぼくはもう一度ののかの手を握ろうと振り返る。 そのとき都子がぼくを引っ張った。  
 「純、あのね。 」
なんだいと、すこし屈みこむ。 都子は赤い顔をして、笑った。  
 「あたしはね、変わるよ。 大人になるよ。 」
ぼくは息を止めた。 都子の声だけが全身に響いた。  
 「今日のことは忘れないよ、ぜんぶ絶対忘れないよ。 でもね、あたしは変わる、大人になるの。 そうして純に、もう迷惑もかけないぐらい、すっごい大人になるんだから。 」
 都子が真面目な顔をする。 大好きな都子がこんなに近くにいる。 それなのにぼくはよくわからなくって都子を見つめる。 心臓が乾く。
 「純、あたしさ、馬鹿だから、いままでなんにも気付かなかったけど、純に迷惑ばっかかけてたよね。 馬鹿な約束、ずっと守らせてたの、今日まで知らなかった、ごめん。 でもあたし、明日から頑張って、純を見返したげる。 今日言い返せなかったこと、ちゃんと言えるようになるからね。 そしたらもう、屁理屈言わずに一番大事にするんだよう。 」
言い切って、ぼくの後ろにちらりと目をやると、満足したように都子はぼくの頭を軽く叩いた。 そんで駆け出して、振り向いて、草平のひょっとこを手で振りながら、はにかんだような笑顔を見せた。 ぼくはその笑顔に手を伸ばしたかった、それなのに体はぴくりとも動かなかった。       
「純、また明日! 」

 

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