彼
彼の人生はあまりにも上手く行き過ぎたのだ。 だから彼は散歩をしているときにどうしても死ななければならないような気持ちになった。 彼は彼の人生に人間の存在が必要だと思えないのだ。 人間の優しさに守られながら、人間の生み出すありとあらゆるものを享受しながら、人間の背中に唾を吐き捨てるような矛盾した生活を送っているのだ。 そういう愚かさを了解しつつ、なぜだか彼は人間を大事に思えなかった。
閑に欠伸し歩いていると、彼は金の卵を見つけた。 つま先でつついてみるとあっけなく殻は破れ、中から透明に輝く糸のような液体が漏れ出した。 そいつはとどまることを知らず地面を這い海を染め人間を殺した。 どうやらヘンテコな毒だったらしい。 あるいは魔法だったかも。
彼はたった一人になった。 なぜ彼だけ生き残ったのか説明してくれる人間はみな死んでしまった(あるいは最初から存在していなかった)ものだから、彼はよくわからんままベンチに腰掛けた。 人間はどこにもいなかった、最初っから産まれてもいなかったみたいにいなかった。 それ以外は何一つ先刻と変わらない景色であった。 彼は幸せだと思った。 どうしてって、そりゃあだって、人間が嫌いだったのだもの、嫌いなものはなにひとつだってない方がいい。 彼は鼻歌まじりに散歩の続きを楽しんだ。
そうして一日が終わった。 彼は幸せだった。 無人のコンビニで弁当を食い散らかし、誰かのデータの残ったゲームをめちゃくちゃな結末にして、そんで寝た。 彼は幸せだった、明日からが楽しみで仕方なかった。
そうして一週間が経った。 彼はまだまだ幸せだった。 いろんなところへ行った。 なぜだかダイヤどおりに動く、車掌も客もない電車の中を駆け回った。 降りた先では写真を撮り、物を食い、おかしな声で叫んで、笑って過ごした。 何もかもが思い通りだ! 最高と言うほかない。
そうして一ヶ月経った。 彼はずいぶん幸せだった。 世界に飽きることは当分ない。 人間さえいなければ面白いもので溢れている。 たとえそれを作ったのが人間だったとしても、やっぱり彼にとって人間は必要ないのだ、やっぱり嫌いだったのだ。 だから彼は最高に幸せだった!
そうして一年も二年も三年も経った。 彼はずっとひとりぼっちだったけれどずっと幸せだった。 生活から人間の肉体をマイナスした世界はなにもかもが平穏で適切で静かだった。 彼はこの終末が永遠に繰り返されるような日々が大変幸せだった。
彼はいつの日かすべてをやりつくした。 満足したので首をつって死んだ。 怖くはなかった、だってもうやりたいこともくそもなかった。 やってみたいことの最後の一つに死を持ってきただけの話である。
そこでぼくは目を覚ました。 隣の席のブスが涙目でこっちを見ている。 教科書を忘れたらしい。 ぼくは爽やかに微笑んで机を寄せると教科書を開いて手招きした。 ブスはありがとうと頬を赤らめた。 どう転んでもブスはブスだな、そう思いながらぼくはどういたしましてと言った。 前の方で眼鏡の教師が苦笑いをしながらぼくにあんまり堂々と寝るなと注意する。 そんで教室がどっと笑う。 ぼくも一緒になって笑いながらみんな死ねと思う。 それからぼくは後悔して死ぬんだろうなとも思う。